築城時、本庄村青木が端(現神島橋東詰少し下流の河川敷の中)に在りましたが、寛永16年(1639)、勝成によって城下神嶋町下市から奈良屋町にかけて(現久松通りの東側・現吉野家前の国道2号線北側歩道から南方、次の東西道まで)移されました。明暦元年(1655)、三代勝貞によって草戸常福寺の伽藍が明王院となり、常福寺は廃絶しました。因みに一旦、廃絶した常福寺は享保年中(1716-36)、多治米村に再興しています。
築城時、本庄村青木が端(現神島橋東詰少し下流の河川敷の中)に在りましたが、寛永16年(1639)、勝成によって城下神嶋町下市から奈良屋町にかけて(現久松通りの東側・現吉野家前の国道2号線北側歩道から南方、次の東西道まで)移されました。明暦元年(1655)、三代勝貞によって草戸常福寺の伽藍が明王院となり、常福寺は廃絶しました。因みに一旦、廃絶した常福寺は享保年中(1716-36)、多治米村に再興しています。