勝成が築城時、城の鬼門(北東)守護のため、当寺を神辺から現在地に移しました。平成13年、本尊(釈迦如来 県重文)の胎内施入品が多数、発見され、南北朝時代初期の貞和三年(1347)、杉原氏が書した経典奥書から本尊は近世史料(備陽六郡志)の記述通り、勝成入部の頃は廃寺となっていた常興寺釈迦堂の本尊であったことが証明されました。
勝成が築城時、城の鬼門(北東)守護のため、当寺を神辺から現在地に移しました。平成13年、本尊(釈迦如来 県重文)の胎内施入品が多数、発見され、南北朝時代初期の貞和三年(1347)、杉原氏が書した経典奥書から本尊は近世史料(備陽六郡志)の記述通り、勝成入部の頃は廃寺となっていた常興寺釈迦堂の本尊であったことが証明されました。